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【国際】

<ベスランの傷跡>(中)自責…人質の少女、記者になった 教訓を報道、生還の使命

ロシア南部ベスランで、事件で人質となった経験を糧に新聞記者になったアリーナ・ナルディコエワさん

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 「命をありがとう」。十五年前、学校占拠事件が起きた九月一日、ロシア南部ベスランでは、人質救出に当たった関係者に感謝を伝えるイベントが開かれた。地元紙記者として取材するのは、かつての人質の少女だった。

 アリーナ・ナルディコエワさん(26)。事件当時は六年生だった。チェチェン独立派の武装勢力は体育館に千百人以上を押し込め、爆弾を設置。睡眠薬などを混入されることを恐れて食料、水の搬入を許さず、トイレに行くことさえ禁じた。

 ナルディコエワさんの記憶は息苦しさとともによみがえる。気温三〇度の暑さ、汗と排せつ物の臭いが充満する中、ぜんそくの発作が起きた。一緒にいた兄の介抱で事なきを得たが、空腹や渇きより「新鮮な空気が吸いたい」と願った。

 三日目の朝を迎え、兄は「外に出たらジュースを買ってやる。目を閉じて休んでろ」と和ませた。まどろんでいると、兄が周りの人と「もう耐えられない。いっそ爆発させてほしい」と話しているのが聞こえた。

 太陽が高くなったころ、目の前で赤い閃光(せんこう)が走った。続いた二度の爆発。気付いたときは見知らぬ男性に抱きかかえられ、病院に運ばれていた。兄も無事だった。人質の救出は進んだが、三百人以上の犠牲者も明らかになる。救出作業に参加した自警団の男性(52)も「私たちは英雄ではない。悪い記憶でしかない」と重い口ぶりで振り返る。

 わが子を失った母親たちは、生き残った子たちに最後の様子を問いただした。ナルディコエワさんのクラスも三分の一が犠牲に。「なぜ自分は生き残ったのか。責められているような気がして、罪の意識を感じた」。街を離れ、しばらく親類の元で過ごした。

 ベスランに戻っても自問自答は続いた。「生きる意味」の断片が見えたのは十五歳のころ、学校で地元紙記者の講座を受けたときだった。事件後、多くのメディアが取材に訪れ、身近に触れた職業でもあった。

 「あの事件の教訓を残したい」。四年前、地元紙の一員になった。遺族を取材するたび心は揺れるが、「助かった私にしかできないことがある」と言い聞かす。

 記者を志した理由がもう一つある。事件のさなか、政府は人質数を約三百五十人と少なく公表した。社会の衝撃を抑え、チェチェン独立派への譲歩を求める世論が広がらないよう情報操作したとも臆測される。犯人らは、いら立ち交じりに「国はおまえたちを必要としていないんだ」と叫び、人質たちを落胆させた。

 独立系メディアのノーバヤ・ガゼータは今年八月に発表した事件を総括するドキュメンタリーの中で「事件はメディアの国家統制を強めるきっかけになった」と指摘した。人に希望も絶望も与えられるのが情報だ、と身をもって知ったナルディコエワさんは誓う。「私は真実を伝える記者でありたい」 (ベスランで、栗田晃、写真も)

事件で救出されたときのナルディコエワさん=本人提供

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