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【国際】

渋沢栄一、難民救済の祖 アルメニア孤児に義援金

迫害を受けシリア・アレッポの難民施設に保護された孤児たち=アルメニア・ジェノサイド博物館のホームページから

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 二〇二四年度から新一万円札の「顔」となる実業家渋沢栄一は、日本で国際難民保護に取り組んだ最初の人物だった−。百年前、オスマン帝国(現在のトルコ)から迫害された中近東のアルメニア人孤児を救おうと義援金を市民から募り、九千ドル(現在の価値で約一千万円)を送金したという。近年、こうした史実が発掘され、日本に先駆け現地で顕彰が始まった。 (小柳悠志)

 「私の家系は海外の篤志家によって救われた。その一人が渋沢だ」。駐日アルメニア大使のグラント・ポゴシャン氏(66)は祖父らが受けた恩義を明かした。

 祖父が十二歳だった一九一五年、イスラム教のオスマン帝国は第一次大戦の混乱の中、領内でキリスト教徒であるアルメニア人の排斥を始めた。祖父は母に手を引かれ、弟らと着の身着のまま逃げ出す。東へ歩くこと六百キロ余。オスマンの手が及ばないロシア領に着くと、母は力尽きた。

 親を失った祖父は働き始め、弟は孤児院に預けられた。飢餓と社会の混乱から孤児を救ったのは日米などからの義援金だった。

 ソ連から独立する九一年まで東側陣営に属し、日本とは縁が薄かったアルメニア。ここ数年、両国の関係の研究が進み、渋沢の難民救済の全容が分かってきた。昨年には現地で「渋沢栄一記念財団」の理事が講演、日本でも来年、渋沢の支援を描いた書籍が出版される見通し。ポゴシャン大使は「新一万円札発行は渋沢の人道的行為が世界に知られる好機」と語る。

 執筆者のメスロピャン・メリネ東北大大学院研究員によると、渋沢は二二年、米政財界でつくる慈善団体「米国近東救済委」の呼び掛けに応じ、自らを委員長とする「アルメニア難民救済委」を立ち上げた。外務省によると、難民問題は第一次大戦後に初めて国際的課題として認識されるようになり、メリネ氏も渋沢を日本人による難民保護の最も早い実践例と結論づけた。

 「可哀想(かわいそう)ぢやありませんか、四十万人の孤児が餓死しますよ」。当時の新聞に渋沢の委員会発言が残る。東京都荒川区の浄閑寺を通し子どもたちがお金を届けると「これぞ貧者の一灯」(貧者の真心のささげ物は金持ちの寄進に勝るの意)と喜んだとの記述も。

 渋沢は独力で多額を寄付する資力があったが、人道支援の意義を社会で考えてもらおうと、草の根の募金活動にこだわった。

 難民救済で米国に協力した動機も注目される。当時、米国では日系移民を排斥する動きが強まっており、渋沢が在留邦人への差別をアルメニア人の苦境に重ねていた可能性が高い。渋沢史料館(東京都北区)の清水裕介学芸員は「アルメニア支援の裏には日米親善の願いもあった」とみる。

<渋沢栄一> 1840年、現在の埼玉県深谷市生まれ。第一国立銀行(現みずほ銀行)、東京ガス、東京証券取引所など500社以上の設立に関わり、「日本の資本主義の父」と呼ばれる。1931年に91歳で死去。

<近代のアルメニア人迫害> アルメニアは301年、世界で初めて国家としてキリスト教を公認した。現在の人口は約300万人。1915年から数年間、大規模な迫害を受けて世界各地に離散した。この際の犠牲者は数十万人から100万人超と諸説ある。欧州連合(EU)などが「ジェノサイド(民族大量虐殺)」と指摘する一方、トルコ政府は組織的な殺りくを否定している。

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