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 1945(昭和20)年3月9日深夜から10日未明にかけ、米軍機が東京下町を襲った東京大空襲は、一夜で約10万人の命を奪い、親兄弟を失った子どもたちが戦争孤児となりました。飢えや寒さと闘い、どうにか生き延びた孤児たちは、その壮絶な体験をほとんど語らぬまま、歳月を重ねています。大空襲から74年。戦争孤児だった人々、救おうとした人々を訪ね、大空襲の裏面史を取材しました。その取材過程の一部で構成したドキュメント動画をお届けします。詳しくは、2019年3月10日から掲載の朝刊連載記事「孤児たちの闘い〜東京大空襲74年〜」をお読みください。

終戦直後、焼け残った上野駅の地下道とみられる場所で座り込む人たち(1945年10月撮影)

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◆上野の地下道。毎日、誰かが亡くなっていた 鈴木賀子さん

[動画]頼るあてもなく地下道へ 鈴木賀子さんインタビュー

戦争孤児だったころ、身を寄せていた上野駅の地下道を訪れる鈴木賀子さん(81)

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 一夜で約10万人の命を奪った東京大空襲から、2019年3月9日で74年。空襲で焼け残った上野駅の近くにある地下道は戦後、家や家族を失った戦争孤児らであふれていた。国の調査などでは約12万人が孤児となり、地下道には千人以上の孤児がいたとされる。

 「毎日のように誰かしら亡くなっていました。皆、栄養失調ですよね」。空襲で母親と姉を失い、各地の親戚宅をたらい回しにされた埼玉県川口市の鈴木賀子(よりこ)さん(81)も、上野地下道での生活を余儀なくされた。ここでの体験を、ずっと語ってこなかった。

 餓死者が続出した地下道。鈴木さんも一緒にいた弟と2人、飢えに苦しむ。駅の近くのヤミ市で食べ物を盗み、口に入れて逃げた。仲間の孤児が教えてくれた「手口」。生きるため、やむを得なかった。

 「でもね、必ずつかまるんですよ。ボコボコに殴られました。私たち浮浪児だから、死のうが生きようが、大人はそんなことおかまいなしでした」

 つらい記憶が残る上野駅は、戦後70年以上がたった今も近づくのがはばかれるという。「東京大空襲は、たった2時間で10万人以上の犠牲を出した。なんであのとき戦争をやめなかったのか。私たちの怒りをどこにもっていけばいいの。戦争は私たちの代だけでたくさん」

◆孤児たちのため 戸籍も与えた「母」 石綿裕さん

[動画]孤児と向き合う 石綿裕さんインタビュー

「愛児の家」を開設した故・石綿さたよさんとともに上野で孤児を保護した三女の裕さん(86)

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 上野で困窮する孤児を見るに見かねて、自宅を開放し、彼らを保護してきた施設もある。東京都中野区に今も残る児童養護施設「愛児の家」だ。1989年に92歳でなくなった故・石綿さたよさんが食料を自ら工面し、一時は百人を超える孤児を保護した。

 さたよさんとともに上野で孤児を保護した三女の裕(ひろ)さん(86)は「母はただただ、子どもがかわいそうだという思いで『うちに来る?』って一人ずつ連れてきたのです。でも、連れてくると、みんなシラミだらけ。髪は脂ではりつき、体はあかで真っ黒でした」と振り返る。

 劣悪といわれた公的な保護施設に、多くの孤児が強制収容されていた時代。愛児の家では、さたよさんが孤児たちの母親の代わりになって面倒を見た。戸籍どころか生年月日、名前さえもわからない孤児も少なくなく、さたよさん自らが戸籍などを与えていた。

◆命の差別 納得できない 国の謝罪を求める元孤児 吉田由美子さん

[動画]空襲体験 語り続ける 吉田由美子さんインタビュー

元孤児として街頭に立つ吉田由美子さん(77)

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 東京大空襲で両親と生後3カ月の妹を失い、孤児となった茨城県鹿嶋市の吉田由美子さん(77)。「一人でも多くの人に戦争を知ってもらいたい」と、空襲体験の語り部としての活動を続ける。

 国に謝罪と損害賠償を求めた東京大空襲訴訟の原告に加わったが、訴訟は2013年に敗訴が確定した。元軍人らに総額60兆円が補償されているのに、民間人に対する補償はたなざらしのまま。実現の見通しは立たない。

 「国は謝らず、軍人軍属と私たちの命を差別している。納得できない。私たちの戦争は終わっていないのです」と吉田さん。終戦から74年を迎える今も、謝罪と補償を求め、国と闘い続ける。

 

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