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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】

(38)突然の執行に呆然

昨年クリスマスイブ。入所者のため、名古屋拘置所の隣で、賛美歌を歌う信太郎(中央)ら。恵喜も毎年聞いていた=名古屋市東区で

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 二〇一三年二月二十一日午前。牧師の市原信太郎は出張先の宮崎県へ向かうため、東京・羽田空港の搭乗口近くで間もなくの出発を待っていた。ブブブ−。スマートフォンが震え、着信を知らせる。妻の誉子(しょうこ)からだった。

 「加納さんが、執行されたみたい…」。いつも冷静な妻の少し上ずった声。「えっ」。出発案内が始まり、信太郎は呆然(ぼうぜん)としたまま、搭乗口へ向かった。

 死刑囚は執行の直前、希望すれば最期の祈りのひとときを得られる。宗教者である教誨(きょうかい)師と面会し、少しでも心を落ち着けて踏み板に向かうためだ。

 信太郎は名古屋拘置所の教誨師ではないが、恵喜は「執行の日が来たら(信太郎に)最期の祈りに立ち会ってほしい」と拘置所へ願い出ていた。信太郎もそれを望んでいたのだが…。「何の連絡もないなんて」。信太郎は機上で歯がみした。

 ◇ 

 名古屋拘置所の関係者によると、恵喜の刑の執行が事前に塀の外へ伝えられることは一切なかった。ふつう、最期に面会する拘置所の教誨師には二〜三日前に立ち会いの依頼があるのだが、恵喜の場合、担当教誨師の野村潔がたまたま海外に出張中で、それすらなされていない。

 恵喜は生前、執行前の市原信太郎との面会について刑務官から「期待に沿いたい」と言われたと信太郎への手紙でうれしそうに知らせている。が、いち刑務官にそんな判断ができるはずもない。

 獄中でキリスト教の洗礼を授かり、それを縁に大勢の人々と出会った恵喜。最期の祈りに立ち会ったのは、見知らぬ仏教の教誨師だったという。「どんな思いで逝ったのか」。信太郎は今も納得がいかない。

 執行後、つまり、すべてが終わった後、拘置所から恵喜が所属するキリスト教会に連絡があり、その関係者が市原家の居間の電話を鳴らした。

 受話器を取った信太郎の妻、誉子は簡単な受け答えで切った。隣にいる娘、むうちゃんに内容をさとられたくなかった。

 「どんな人の命でも重い」。誉子はそう思う。「その命を奪うことは絶対に許されない」。だから、重い命を二つも奪った恵喜の罪は許されるものではない。人を殺(あや)めるという罪がどうすれば贖(あがな)えるのか、誉子には分からない。

 ただ、これは分かる。面会でアクリル板越しに、娘と向き合う恵喜はただの「好々爺(こうこうや)」だった。赤ん坊のころから、立ち、歩き、話し、歌い、踊るようになっていった、むうちゃん。その成長を見たがった恵喜の姿が偽りのはずがない。その命を奪うしかなかったとは、どうしても思えない。

 執行の翌日、二十二日の夕暮れ。誉子が家のポストをのぞくと恵喜が二日前に出した最後の手紙が届いていた。取り出したのは、むうちゃん。いつもの白い封筒を開き、いつもと変わらぬ内容を、いつも通り読み聞かせた。

 でも、いつもの面会はもう二度とない。「けっけちゃん、具合が悪くなって死んじゃったんだって」。そう告げたのは執行から一週間がすぎたころ。まだ五歳。死ぬ、という意味がまだよく分からなかったのか、むうちゃんはただ、きょとんとしていた。 (敬称略)

 

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