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【伝言 あの日から70年】

生還6人死の行進 ボルネオ島・サンダカン

学識者との交流で来日した際、サンダカン死の行進で生き残った父について話すリチャードさん=東京都港区で

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 七十年前の太平洋戦争末期、東南アジア・ボルネオ島で、日本ではあまり知られていないある悲劇が起きた。一九四五年一月二十九日、旧日本軍のサンダカン捕虜収容所で、連合軍の捕虜ら約千人にジャングルを二百六十キロ歩かせる「死の行進」が始まった。生き残ったのは脱走した六人のオーストラリア兵のみ。その一人、ディック・ブレイスウェイトさん(故人)の長男リチャードさん(67)は、戦後も恐怖におびえ続ける父を見て育った。 (菊谷隆文)

 「父は、盗んだ食糧を仲間と奪い合う記憶と、虫が足をはい上がる悪夢に悩まされた」。リチャードさんが硬い表情で語る。ディックさんは戦後、結婚して三人の子を授かったが、心の傷は癒えなかった。

 防衛拠点の移動に伴い捕虜に物資を運ばせた死の行進で、食糧は住民から略奪するしかなかった。脱走してもマラリアと飢えに苦しみ、木の根を枕に休んでいると、アリに足をかまれて目が覚めた。

リチャードさんの父ディックさん

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 四一年十二月八日、日本軍は英国領マレー半島に侵攻した。連合軍は二カ月で降伏。ディックさんはサンダカンに送られ、飛行場の建設作業を強いられた。炎天下、荒れ地を手でならす日々。少しでも休むと体罰が待っていた。

 死の行進で、捕虜は重い荷物を背に一日十八キロも歩かされた。途中で力尽きた人、遅れて銃や剣で殺された人もいた。ディックさんの班は四五年六月初めに出発。数日後、監視員の目を盗み茂みに飛び込んだ。

 せきが止まらず日本兵に見つかったが、とっさに殴り殺した。密林を丸三日さまよい、日本軍のボートが行き来する川のほとりであきらめかけていた時、住民に助けられ、フィリピンの米軍基地にたどり着いた。体重は捕虜になる前の半分の三一キロだった。

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 多くの友を失ったディックさんは八一年、ボルネオ島での追悼式に出席した。途中のマニラで見た日本人の観光客に怒りがこみ上げた。その五年後、六十九歳で亡くなった。

 強い反日感情を抱き続けた生涯だったが、晩年は日本車に乗り、日本人セールスマンに冗談を言うこともあった。リチャードさんら子どもには「日本人を憎むな」と教えたという。

 リチャードさんは大学講師だった十年前、ある元日本兵(故人)の回想記を読んだ。ボルネオのジャングルを六百キロ歩き続けて生還した体験が、父と重なった。英訳本を編集し、言葉を寄せた。「私たちの周りの人が体験した恐ろしい出来事に憎しみを持ち続けることは、その傷を治すことを遅らせるだけだ」

サンダカン捕虜収容所で死亡したオーストラリア兵の顔写真=オーストラリア戦争記念館で

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◆悲劇伝える1787の顔

 壁一面を覆い尽くしたおびただしい顔写真が、わずかな明かりに浮かび上がる。オーストラリアの首都キャンベラにある戦争記念館の一室。太平洋戦争中、ボルネオ島にあった旧日本軍のサンダカン捕虜収容所で、「死の行進」などにより死亡した千七百八十七人のオーストラリア人捕虜の遺影だ。

 サンダカンには約七百人の英国人を含め約二千五百人の捕虜が収容され、生き残ったのは六人だけだった。生存率はわずか0・24%。説明板には「オーストラリアの戦争史で最大の悲劇」と記されている。

 「戦後、捕虜の過酷な経験が新聞やラジオで伝えられた。オーストラリアには個人の物語を賛辞する文化がある。私たちもそこに焦点を当て、遺族から写真を集めた」。戦争記念館で旧日本軍を研究しているスティーブン・ブラード博士(52)は、この部屋を特別に設けている理由を語った。

 わずかな食糧で過酷な労働を強いられ、病で薬を与えられないまま死んだ人、ジャングルを二百六十キロも歩かされた死の行進で力尽きた人、衰弱して最後は殺害された人…。この部屋に入った来場者は、元気だったころの彼らのまっすぐなまなざしに息をのむ。

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 一つ一つの顔写真を指でなぞる幼い男の子がいた。父親が寄り添って語りかける。生き残った六人は既にこの世にいないが、旧日本軍に理不尽に命を奪われた捕虜たちの物語は、戦争を知らない世代にも刻み込まれている。

 一方の日本では終戦から現在に至るまで、サンダカンをはじめ旧日本軍による連合軍捕虜への戦争犯罪は、ほとんど知られていない。

 初めての謝罪は一九五七年。首相だった岸信介氏がオーストラリアを訪れた際に伝えた。その孫の安倍晋三首相は昨年七月、オーストラリアを訪問し、戦争記念館にも足を運んだ。

 連邦議会での演説ではサンダカンに触れ、「何人の将来ある若者が命を落としたか。生き残った人々が戦後長く苦痛の記憶を抱え、どれほど苦しんだか。哀悼の誠をささげます」と述べた。祖父が述べた謝罪の言葉は口にはしなかった。

戦争資料の展示と犠牲者の追悼をするオーストラリア戦争記念館=オーストラリア・キャンベラで

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 ブラード博士は「日本の首相がオーストラリアを訪れるたびに謝罪が必要とは思わない。しかし、過去に実際にあったことを忘れていいとは思わない」と語る。そして、戦後五十年の区切りに当時の村山富市首相が出した「村山談話」にある「歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らない」という言葉を引き合いに、強調した。

 「日本が収容したオーストラリア人捕虜は二万二千人で三分の一以上の八千人が死亡した。(日本と同盟国の)ドイツが収容した捕虜は約5%しか死んでいない。これが、過去に何があったかを振り返らなければならない理由だ」

「日本は過去にあったことを忘れてはならない」と話すスティーブン・ブラード博士

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◆泰緬鉄道でも

 太平洋戦争で旧日本軍は、東南アジアで欧米の植民地だった地域を一時占領し、約三十五万人の連合軍捕虜を収容した。英国の元植民地として連合軍に加わったオーストラリア軍は、約二万二千人が捕虜になった。捕虜はサンダカンなどの占領地のほか日本でも重労働させられ、多くの死者が出た。

 中でも過酷さを極めたのはタイとミャンマーの国境、四百十五キロに及ぶ「泰緬(たいめん)鉄道」の建設だった。目的は軍物資の輸送。一九四二年七月〜四三年十月の突貫工事に、約六万五千人の連合軍捕虜と約三十万人のアジアの労働者が駆り出された。現場は険しい山岳地帯で、ミャンマーが英国領だった時、英国人技師が鉄道建設を断念したほどの難所。約一万二千人の捕虜が死亡し、「死の鉄道」と呼ばれた。一部は今も運行されている。

 シンガポールで捕虜になったオーストラリア人のミルトン・フェアクローさん(93)はこの鉄道工事を経験した。昨年十月に来日した際、「病気になっても無理やり働かされ、毎日、殴られてばかりだった」と苦々しい表情で振り返った。戦後、帰国してもマラリアや赤痢が治らず、死の恐怖に苦しんだという。

泰緬鉄道の建設工事の悲惨さを語る元捕虜のミルトン・フェアクローさん

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 日本に送られた約三万人の捕虜も悲惨だった。国内には約百三十カ所の収容所が設けられ、深刻な労働力不足だった炭鉱、金属鉱山、造船所などで働かされた。栄養失調や脚気(かっけ)などの病のほか、米軍による空襲、広島と長崎への原爆投下で、約三千人が犠牲になった。

 戦後、旧日本軍の各地の収容所幹部らは、捕虜虐待のBC級戦犯として、連合軍に裁かれた。戦争捕虜の調査をしている日本の学識者でつくる「POW研究会」によると、死刑に処せられたのは、サンダカンでは五人、泰緬鉄道建設では三十二人、日本では二十八人だった。 (菊谷隆文、写真も)

 <サンダカン死の行進> 1945年1〜4月と5〜6月、旧日本軍はボルネオ島北東のサンダカン捕虜収容所の英国人、オーストラリア人捕虜に260キロ西のラナウまで徒歩で物資を運ばせた。米軍の空襲激化に伴う捕虜の移動と島西部の防衛が目的。広島市立大学の田中利幸教授によると、約2500人いた捕虜は病死などで約1800人に減り、このうち約1000人が行進を強制された。到着できた約400人とサンダカンに残った捕虜も終戦までに殺害されたり、病死した。収容所幹部5人は戦後、BC級戦犯として死刑になった。

 <オーストラリア戦争記念館> 第1次世界大戦(1914〜18年)の資料展示とオーストラリア人犠牲者の追悼施設として41年に政府が建設。第2次大戦(39〜45年)やその後にオーストラリアが参加した戦争の資料展示と死者の追悼も続け、年間90万人が訪れている。

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◆捕虜虐待…一時的な勝利感

 田中利幸さん(65) 広島市立大・広島平和研究所教授

 サンダカン捕虜収容所では、約二千五百人の捕虜のほぼ全員が「死の行進」などで死亡した。こんな旧日本軍の戦争犯罪が国内であまり知られていないのは、軍が終戦直前、収容所に火をつけたため、証拠になる関係書類が全く存在しないからだ。

 さらに重要なのは、収容所には日本人が幹部しかおらず、監視員が台湾人ばかりだったこと。戦後、幹部はBC級戦犯として処刑され、日本での証言者は極めて少なかった。

 軍は植民地だった台湾、朝鮮から監視員を募った。彼らは「上官の命令には絶対服従」と体罰でたたき込まれたが、身分は最下級の二等兵よりも低かった。その不満のはけ口から捕虜を虐待する構図が、悲劇の一因になった。

 また、戦局が悪化すると、日本人上官の中では焦りが高まり、監視員に捕虜を痛めつけるよう命令し、勝利感を一時的に味わう傾向が強くなった。サンダカンでは米軍の空襲が始まった一九四四年秋ごろから、食糧、薬が急激に減って捕虜虐待が激しくなり、「死の行進」につながった。

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 日本兵は「軍人勅諭(ちょくゆ)」と「戦陣訓」で「天皇のためにがむしゃらに戦い、捕虜になることを恥とし、自害を選べ」と教え込まれたことも影響した。捕虜の人道的な扱いを定めた「ジュネーブ条約」(一九二九年)も軍部の反対で批准していなかった。軍幹部は「捕虜になる日本兵はほとんどいないはずで、敵兵の捕虜だけを人道的に扱う義務は不公平だ」と考えていたからだった。

 戦争は殺すか、殺されるかの極限状態だ。憎しみから、敵兵を徹底的に人間とは思わないようになり、抵抗する手段のない捕虜への虐待につながる。ベトナム戦争末期、米軍の兵士は敵兵の捕虜の遺体を数えることで勝利感に浸ったこともあった。この裏側には、兵士自身が死の恐怖から逃れたいという心理が大きく作用している。

 

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