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【伝言 あの日から70年】

激戦の島 帰れぬ遺骨 硫黄島 1万1000人分残る

硫黄島に向けて建てられた父・一さんの墓に手を合わせる越後良明さん=神奈川県横須賀市で(淡路久喜撮影)

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 硫黄島の戦い 1945年2月19日、米海兵隊の上陸作戦により始まった地上戦。栗林忠道中将を総指揮官とする旧日本軍が激しく抵抗し、史上まれに見る激戦となった。組織的な抵抗が終わったとされる3月26日までの1カ月以上の戦闘で、日本側は守備兵力の約2万2000人が戦死、米側も6800人の死者を含む2万6000人が死傷した。

 東京都心から1250キロ南の硫黄島。太平洋戦争末期の1945年2月に始まった日米の激戦で、日本兵約2万3000人のうち95%が命を落とした。自国の領土なのに遺骨収容は遅々として進まず、戦後70年となった今も約1万1000人分が見つかっていない。凄惨(せいさん)な歴史を持つ島に、今も帰れぬ人たちが眠っている。

 元陸軍上等兵・山口周一さん(95)=千葉県南房総市=は四五年二月十九日、島東部の地下壕(ごう)で仲間と身を潜めていた。米軍が上陸してきた時に、戦う体力はなかった。八カ月前から毎日、壕を掘っていたのに、一人分のご飯を班員八人で分けてしのぐほど食料が不足していたからだった。

 「水もねえ、食べるものもねえ、弾もねえ。体持ちこたえるのにやっとだった」。やせこけて死んだ兵士の体は、大量にたかったうじで膨らんで見えた。

 劣勢に立たされると、上官は敵への突撃を命じた。地面は壕から出て撃たれた兵士たちの血でそまった。「生きて帰れると思う人は一人もいねえやで」

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 越後良明さん(77)=神奈川県横須賀市=の父一(はじめ)さんは、そんな戦場で命を失った。墓は三浦半島の丘の上に、硫黄島の方を向いて立っている。骨つぼには戦死を知らせる紙と島で拾った石だけ。遺骨は入っていない。

 「遺骨はまだ島にあるはずだ」。越後さんは定年退職後、遺骨収集団に加わり、昨秋まで十七回ほど硫黄島へ赴いた。入り口をふさがれた壕内で亡くなった人の遺骨を見つけた時は胸が締め付けられた。

 「真っ暗闇の中で死を待つという心境を考えると…。家族のことを思っていたでしょう」。父であってもなくても、早く地上に出してあげたいと思った。

 五年前、収容作業のために島を訪れた時、視察に来ていた民主党の長妻昭厚生労働相(当時)に「島にある集団埋葬地を調べてほしい」と迫った。

 報道で、米国立公文書館に日本兵の集団埋葬に関する史料があると分かっていた。生還者が少なかったうえ、戦後、返還まで長い年月がかかった硫黄島では、遺骨収容は進んでいなかった。埋葬地を見つければ収容が一気に進む。それでも「直訴」しなければ国は動かない。越後さんはそう思い詰めた。

 国内で硫黄島と同じく地上戦があった沖縄では約十八万人が亡くなり、残る遺骨は民間人も含め約三千柱。それと比べ、硫黄島の一万一千はあまりに多い。「子どものわれわれもそう長く生きていられない」。越後さんは焦りを感じている。

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◆飢え、渇き 地獄の戦場

 「飢えと渇きに苦しみ抜く地獄だった」−。二十二平方キロメートルの小さな硫黄島で、日米による歴史的な激戦があった。生き残った人は島に残した戦友を思い、戦いで散り散りになった島民は、今も墓参りすら自由にできない。戦後七十年を経ても悲しみは続く。

 「艦砲射撃が陣地に命中しますがね。爆破されて鉄砲や鉄かぶとがボーンと跳ね上がる。それがだんだん細かい破片になってくる。人の体もそうだった」

太平洋戦争時の硫黄島での体験を話す秋草鶴次さん

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 海軍通信兵だった秋草鶴次さん(87)=栃木県足利市=は一九四五年二月十九日、島中心部の玉名山送信所から米軍上陸の様子を監視していた。米兵たちが上陸し、夜になると日本軍の負傷兵が自決する手りゅう弾の爆発音が聞こえた。

 秋草さんのいた送信所も三月一日に火炎放射を浴びた。髪の毛は焼け、体はまひしていた。夜、外に出ると、「伏せ」の声が聞こえた。直後に左後方で砲弾が破裂した。右手をまさぐると三本の指先がなかった。左足の太ももを砲弾片が貫通し血でべとついていた。

 けがを負って運ばれた壕(ごう)の中は、統制を失っていった。飢えや痛みに耐えかねた自殺や、言い争いの末の射殺でも多くの命が失われた。「米粒一つだって相手を殺しても取りたい。階級なんか関係ない。銃を持ってる人が強かった」

 秋草さんも重傷を負ってから十日以上、何も口にできなかった。重油が入ったドラム缶にホースを突っ込んで吸い込み吐き出した。炭を見つけるとかじりついた。自分の体につくウジやシラミも食べた。自分は生き延び、ほとんどの戦友は亡くなった。その死者の半数以上の遺骨が、故郷に帰れないままだ。

     ◇

 「戦争末期には、遺骨箱の中が何であれ『英霊』とみなして遺族の元へ帰すというフィクションが常態化していた。それに引きずられず、国によって死を強いられた人の尊厳を取り戻すという意識で、遺骨収容にぎりぎりの努力をしてきたのか」

父を亡くした安荘正憲さん

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 帝京大総合教育センター講師の浜井和史さん(39)が疑問を投げかけるように、国の取り組みはゆっくりとしていた。

 硫黄島の遺骨収容が始まったのは、島がアメリカから返還された六八年。それから四十年余り、作業は年一、二回だけ。ようやく本腰を入れ始めたのは民主党政権の二〇一〇年八月。防衛、外務省も含め政府一体で取り組む体制をつくった。現政権は、滑走路の下など手付かずだった地区の調査も進める。

 一時は上がった収容のペースが、体制強化以前の水準に戻ろうとしている。一因は情報の不足。元兵士の高齢化や死亡で、どこで誰が亡くなったかという話を集めにくくなっている。

 情報収集の遅れは、別の悲劇も生んでいる。

 安荘(あんしょう)正憲さん(80)=横浜市磯子区=の父憲瓏(けんりゅう)さんの遺骨は九八年、千鳥ケ淵戦没者墓苑に納められていると分かった。遺骨の発見は八六年。十二年がたって偶然、記録や証言との照合ができ、身元が明らかになった。

 しかし、すでにほかの身元不明の遺骨とともに墓苑で眠り、父の遺骨だけ取り出すことはできない。「母と同じお墓に入れてあげられれば良かった。もうどうしようもない」と嘆く。

     ◇

軍に徴用された元島民の須藤章さん

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 島が「戦地」に変わりゆく中、島民も軍に組み込まれたり、生活の場を奪われたりした。地上戦の時に二十歳だった須藤章さん(90)=神奈川県横須賀市=は、軍に食糧を供出するための農作業に従事していた。

 米軍の上陸から数日たった夜、同じく軍に徴用された二つ年下の弟・雄三さんと顔を合わせた。「敵に切り込みに行ってこいって言われた。でも、ぼくらには手りゅう弾の一つもないんだよ」。それが弟の最後の姿だった。遺骨はおろか、どのように亡くなったかも分からない。

 須藤さん兄弟のように軍務に就かされた十六歳以上の男性は百人余り。その他の島民ら約千百人は強制疎開させられた。

元島民の渡部敦子さん

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 「あの別れのつらさったらなかった。悲しい景色でした」。渡部敦子さん(85)は四四年七月七日、強制疎開で本州へ向かう船に乗り込んだ。泣き別れる家族の姿があちこちにあった。

 渡部さんは都内で働いた後、現在暮らす栃木県那須町に移った。疎開した島民らが集団入植した地だ。硫黄島の戦闘で夫や息子を亡くした女性が多かった。もう四十年、ここで暮らしていたのに生活は貧しかった。「楽な生活も知らず、みんな亡くなっていった」

元島民の新井俊一さん

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 新井俊一さん(85)は、疎開した静岡県下田市で今も民宿「硫黄島」を営む。最初は、十畳一間の小屋のような家で八人家族が暮らした。「『疎開者』『引き揚げ者』ってばかにされて。ひでえもんだった」。偏見にさらされながら、ダイバーとして必死に働いた。

 渡部さんと新井さんは島で同級生。硫黄島神社の奉納相撲、新年のたこ揚げ、実ったマンゴーやパパイア…。連絡を取り合い、子ども時代を懐かしむ。

 その故郷には自由に立ち入ることができない。亡くなった上級生らを弔う機会も東京都や小笠原村が主催する年数回の墓参りだけだ。「墓参で行くと、おーいまた来たぞって声かけるんだ。せめて自由に行けるようになってほしいな」と新井さん。渡部さんも「引き揚げてきて放り出され、島に帰り住むこともできない。私たちにとって戦後は終わっていない」と話す。(小林由比)

見つかった戦没者の遺骨=2010年12月14日、東京都小笠原村の硫黄島で

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◆日米合作の『捨て石』

石原俊さん(40)明治学院大学准教授

 アジア太平洋戦争の前線として地上戦の舞台となった硫黄島は、戦後も日米に軍事利用され続けている。その影響で国内であるのに遺骨収容が進まず、帰島を希望する島民の問題も放置された。異常な事態だ。

 二つの問題は、硫黄島の戦後処理の両輪といえる。しかし、終戦から七十年、国は決着をつけないまま、すべての記憶が消えるのを待っているかのように見える。島は日米の政府による矛盾を押し付けられてきた。その歴史を私たちはしっかりと記憶していかなくてはならない。

 とりわけ、島に住民の生活があったことや、地上戦で戦死した人びとの中に島民がいたことは、あまりにも知られてこなかった。人口が少なく、強制疎開で離散してしまい、その声に耳が傾けられることはほとんどなかったからだ。

 島には半世紀以上、人びとの暮らしが息づいていた。だが、日本軍が島を軍事化。島民も十六歳以上の男子は原則徴用の対象となり、その他には島からの引き揚げが命じられた。

 同じような強制疎開や軍務動員は、戦況が悪化した一九四三年ごろから、南洋群島や東南アジア、小笠原諸島の父島、母島などでも行われた。日本が敗北の過程で、現地の住民に犠牲を強いながら降伏を引き延ばし続けたことを記憶する必要がある。

 施政権返還後、帰島を求めた島民らに対し、国は「再居住は困難」と答えている。火山活動や不発弾の存在などが理由だった。

 しかし、政府は米空軍が撤退した後に自衛隊を駐屯させ、米軍機の離着陸訓練も行っている。再居住もまた、軍事利用のために阻まれたに等しい。島民は「日米合作」の形で、幾重にも「捨て石」とされてきたといえる。

 

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