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【戦後の地層】

<命と国家>(1)タピオカ 日本軍占領下 苦い「主食」

チュアン・ケンクンさん(左)、タピオカチップスを食べるシンガポールの女子学生(上)、タピオカミルクティー(下)=コラージュ

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 スイーツの具材として知られるタピオカは、マレーシアやシンガポールの人々にとっては、戦時中の辛苦の味だ。

 キャッサバとも呼ばれる芋の部分を食べる熱帯植物で、丸いゼリー状の粒は、そのでんぷんから作る。マレーシア・ペナンのチュアン・ケンクン(76)の記憶には、味のしない蒸しただけの芋が刻まれている。「食べる物さえあればよかった」

◆現地調達で食糧難

 一九四二年、英領マラヤ(現マレーシア・シンガポール)を日本軍が占領。地元の人々は厳しい食糧難に陥った。必要な物資を現地調達する日本軍の方針が原因だ。米を日本人が食べる代わりに、現地の人々の主食としてタピオカの栽培を促した。

 四歳だったチュアンは家族と船で、約百キロ北のランカウイ島へと逃げた。日本と戦争をしている中国の支援者として、軍は中華系を敵視していた。スパイと疑われれば殺されることもある。待っていたのは、ひもじい生活。タピオカ、サツマイモを育てたが、足りない。ナッツ一粒でけんかになった。

 中国に戻った兄は、戦死。周りの大人は、軍人に会うと腰を九〇度に曲げ、おじぎした。「そうしないと強い日差しのもとでずっと立たされる」

 戦後、ペナンで定年まで小学校の先生を勤め上げた。取材で訪れた日の食卓には果物の王様ドリアン、ココナツミルクたっぷりのカレー麺が並んだ。孫にいつも語りかける。「おなかいっぱい、好きな物を食べられるのは幸せなことだよ」

◆栄養価は乏しく…

 耕作が簡単なタピオカだが、栄養価は乏しい。「ビタミンが足りず、病院は脚気(かっけ)患者であふれていた」とペナンの三菱商事の現地法人で勤めていた元医師ピーター・バニアシンガム(89)は振り返る。

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 マラヤを占領したころには破竹の勢いだった日本軍も、敗色濃厚となるにつれ、各地の戦線で飢餓と病気が兵士の命をのみ込んだ。クアラルンプール近くの村にいたコック・エンファ(77)は、占領の時には大きな自転車に乗って軍歌をハミングしながら入ってきた日本兵が、敗戦を知って泣いていた姿を覚えている。

 戦後の食糧不足を補うため、日本は、アジアからタピオカの輸入を始める。地元ジャーナリストは言う。「大東亜共栄圏ではなく、共“貧”圏だった」

 丸いタピオカが台湾でミルクティーに入れられ、世界各地で人気を集めるのは、一九九〇年代。アジアが成長軌道に乗ったころだ。

 世界有数の観光地となったシンガポールでは、コンビニで手軽にタピオカチップスを買える。ホテル従業員は「われわれの世代にとっては、ただのお菓子」。タピオカの位置づけは、七十年間を経て様変わりした。

 それを可能にした地域の平和。戦争の被害を調べるマレーシアの歴史研究会は昨年、日本の憲法九条に「アジア平和賞」を贈った。対象は、その精神に賛同するすべての国民だ。兄二人を殺され十五歳で抗日軍に入ったヤップ・テックミン(88)ら会の人々は、日本が再びきな臭くなったときには、若者がその動きを食い止めてほしいと願う。「戦争に行くのは、普通の人だから」 (文中敬称略、福田真悟)

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 「食べる」という行為を糸口に、命と国家を見つめます。

 

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