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【戦後の地層】

<命と国家>(3)あめ 野馬追 国策に流され

西内清実さん(左)、1944年、一部行われた神事について伝える福島民報の見出し(中)、2012年の騎馬行列(右)=コラージュ

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 福島第一原発から三十キロ圏内の福島県南相馬市原町区。夫清実(83)と染め物店を営む西内久子(76)は、子どものころの地域の困窮ぶりを、黒糖のあめの味とともに覚えている。

 「ねずみのしっぽを一本農協に持ってくと、あめを五つくらいくれた」。戦後の食糧難に凶作が重なり、倉庫を荒らすねずみ退治に大人たちは躍起になっていた。「そのぐらい、食べ物がなかったの」

 相馬地方には、騎馬武者たちが野原を駆ける「相馬野馬追(のまおい)」という伝統行事がある。七市町村から参加する騎馬武者は、自費で甲冑(かっちゅう)や馬を用意する。武者が背負う旗を染め続けてきた夫婦は、客を通じて地域の浮き沈みを感じてきた。

 原発が誘致され、周辺の浪江町や双葉町の人々も前より多く野馬追に出場するようになった。もともとは出稼ぎも多かった寒村。「働く場ができて生活できるようになったから。地域が原発の恩恵こうむっていたのは確かだよ」

 長男の清祐(せいゆう)に店を譲った後の二〇一一年、東日本大震災と原発事故が起きた。旗やのぼりを津波で流された客から、注文が相次いだ。一時は避難先の山形と福島を行き来しながら仕事に追われた清祐は一三年末に体調を崩し、原因不明のまま五十一歳の若さで急死した。

 大黒柱を失い、八十代で現場復帰した清実の最初の仕事は津波で妻を亡くした客の野馬追の旗だった。「『やってくれんのか』と言われて『おまえのやっぺよ』って」(清実)。原発事故で、ばらばらに暮らすことになった家族からそろいの旗の注文も舞い込む。「原発って安全の宣伝はしてたけど、安全の対応はしてなかったんだな」

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 江戸時代、地域を治めた相馬家の祭礼だった野馬追は、武家がなくなった明治時代には、神社の神事となることで廃止を免れた。政府は富国強兵に国民を駆り立てる精神的な支柱として、神道国教化を推し進め、野馬追も「軍国主義の象徴」ともてはやされた。

 昭和に入り、原町(現南相馬市原町区)の熱心な誘致で、野馬追の祭場の隣に陸軍飛行場がつくられた。太平洋戦争末期、ここで訓練した若者が特攻隊員として命を散らした。軍都だった原町は空襲にも遭った。

 貧しさからの脱却を求め、国策に寄り添い続けた相馬地方。多くの場所で人が住むことすらできない中、野馬追を続ける意味を、市博物館学芸員の二上文彦(42)は「平和と安寧を願う場だから」と説明する。

 震災前から「野馬追は誰のためにやるのか」を考え続けてきた二上は天明の飢饉(ききん)(一七八三年)の後に相馬家が書いた願い文を見つけた。野馬追をする目的の最初に「天下泰平」とあった。「皮肉にも震災後に根底にある本質が伝わるようになった。『戦う』ためでもなく、観光客のためでなく、ここに住んでいる人たちのために必要なんだ、と僕は言いたい」 (文中敬称略、早川由紀美)

 

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