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【戦後の地層】

<命と国家>(4)おにぎり 米兵慰安 生きるため

母とともにホームに向かったトンネルの前で話すアンジェロ福島さん、右下は母親たちからホームに届いた手紙=コラージュ

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 岐阜県の自宅を出たのは昼ごろ。神奈川県大磯町の児童養護施設「エリザベス・サンダース・ホーム」に着いたときは夜になっていた。「マミー、何で泣くの」。四歳だったアンジェロ福島(66)は傍らの母親に尋ねた。母親は金の十字架を残し、一人で帰った。

 ホームは、三菱グループの創設者岩崎弥太郎の孫、澤田美喜(故人)が一九四八年に創設。米兵と日本人女性の間に生まれた子を預かった。

 母親は戦後、岐阜の米国人将校クラブで働いていた。トロンボーンを演奏する米兵と恋に落ち、十九歳でアンジェロを産んだ。父親は数年後、米国に去る。

 当時、米兵と交際している女性には冷たい視線が向けられた。アンジェロは、好奇の目で見る子どもたちに石を投げたこともある。同じ境遇の子の中ならいじめられることもないという母親の決断。「私を捨てたんじゃない。手放さざるを得なかったんだ」

     ◇

 進駐軍の兵士と敗戦国の女性。その間を最初につなごうとしたのは国だった。

 四五年八月十五日の敗戦からわずか半月足らずで米兵の慰安施設を全国につくり始めた。ダンス場から売春施設まで。「米兵から一般の女性の貞操を守る防波堤」と言われたが、新聞広告などを見て応募してきた多くは、空襲で家や家族を奪われるなどした一般の女性たちだった。

 一年後、旧満州(中国東北部)で看護師をしていた女性の告白が新聞の投書欄に載った。<家も仕事もなく、二日間何も食べていなかった時に、おにぎりをくれた男性に誘われ、「闇の女」とさげすまれるようになりました>。その投書を基に流行歌も生まれた。

 大磯のホームには子どもを預けた親から澤田に届いた手紙が残されている。「職もなし、お金もない今、娘をかかえていたら、私はうえ死にするだけです」。澤田美喜記念館の西田恵子は「手紙はどれも達筆で、しっかりした内容」と話す。

 長崎県佐世保市の元市史編さん委員、山口日都志(ひとし)(78)は五〇年代、街に米兵相手の女性があふれていた光景を覚えている。朝鮮戦争が始まり、米兵が大量に待機していた。「多くは関西商人が連れてきた。私の友達の姉もパンパン(米兵相手の売春婦の当時の呼称)になった」。一時は五千人以上いたという女性たちは五〇年代後半には街から消えた。

     ◇

 ホームの多くの子は、実の母親と再会することはなかったが、アンジェロは三十歳のときに、母親から連絡があり、十年前の葬式にも立ち会えた。

 戦争は終わった後も社会に傷を残す。弱い立場の女性や子どもにはとくに深く。それでも、傷を癒やそうとする力が戦後に生まれたと、ホームで澤田の背中を見て育ったアンジェロは思う。敵、味方の間で生まれた「歴史の落とし子」として今の平和主義の揺らぎは分岐点と感じる。「先人たちが築いたものをもっと大切にしないと」 (文中敬称略、飯田孝幸)

 

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