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【戦後の地層】

<和解と愛国>(1)原爆 「米兵の死」 泣き崩れ

「米兵捕虜の死」(原爆の図丸木美術館提供)

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 戦争は加害と被害の連なりだ。だからこそ、その傷痕も深い。終戦から七十年。愛国の名のもと、再び他国にとげとげしいまなざしを向ける空気も漂う。「戦後の地層」最終シリーズは、傷を埋めようといまだ和解を模索する人々を見つめた。戦わぬ「戦後」を続けていくために。

 その白髪の老人は、退役兵が好む、「WWII」(第二次世界大戦)と刺しゅうされた濃紺の野球帽をかぶっていた。今年六月、米国ワシントンのアメリカン大学で開かれた原爆展初日。歩行器に支えられた老人は、「米兵捕虜の死」という絵の前で泣き崩れた。

 広島出身の画家、丸木位里(いり)・俊夫妻(いずれも故人)が描いた連作「原爆の図」の一枚。広島の捕虜収容所にいて犠牲となった米兵を描く。報道陣に取り囲まれると「私がこの絵のようになるかもしれなかったんだ」「日本は、中国で何をしたんだ」とまくしたてた。名前は言わなかったが、九十四歳で元通信兵であることは明かした。駐留したのは、広島に原爆を落としたB29爆撃機エノラ・ゲイが飛び立ったテニアン島だった。

 翌朝再び訪れた老人は、静かに同じ絵に見入った。

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絵の前で泣き崩れた退役軍人=米ワシントンのアメリカン大学で(岡村幸宣さん提供)

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 その数日前、原爆展であいさつするため渡米した被爆者山本定男(84)=広島市=も国立スミソニアン航空宇宙博物館別館で憤っていた。有人宇宙船スペースシャトルなどとともに常設展示されているエノラ・ゲイの前で、若い女性ガイドはにこにこと笑って説明した。「栄光の記録です」

 一九四五年八月六日、中学二年生だった山本は、さつまいもの草取りに駆り出された広島市郊外の練兵場で、級友とともにエノラ・ゲイの腹を見た。「こんな朝早くに、何しに来よった」。空がぴかっと光った直後、草むらにはねとばされた。爆心地の中学校に残った一年生三百二十二人は全員死んだ。

 七十年前に故郷を丸ごと奪った機体の前で、わめきたい気持ちを必死に抑えた。「この鉄板の下でどんな悲惨なことが起こったか、知っているのか」。原爆展のあいさつでは怒りを願いに転じた。「ぼくは米国を憎みにきたんじゃない。どうか手を携えて核兵器廃絶に力を注いで」

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 何十万もの命を奪った原爆投下を、米国は戦争終結を早めたと正当化してきた。戦後五十年の九五年、スミソニアン航空宇宙博物館で計画された原爆展は、国を挙げての正当化論に跳ねとばされる。被害の展示はできず、館長だったマーティン・ハーウィット(84)は辞職に追い込まれた。

 計画を大幅に縮小し、その年、アメリカン大学で開かれた原爆展で来館者が感想を記したノートが今夏、広島平和記念資料館の書庫から見つかった。

 「核の技術者として核兵器、広島、長崎はいつも忘れることはできない」。そう英語で記した一人の日本人の感想文には、二十年後の老兵の問いに答えるような言葉もあった。「核兵器を使うことを正当化してはいけないが、日本人もまた、中国や韓国について思いを寄せるべきだ」。ヨシカズ・ムラベという名前をたどると、東京電力廃炉担当取締役になっていた。 (敬称略)

「移民は戦争の抑止力になりうる」と話す阿久津大輔さん(モニターに映った姿)。右上に映っているのは留学時代の写真=写真は上下逆

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◆痛み伴う歩み寄り重ね

 村部良和(59)は当時、日本原子力発電(原電)に在籍し、電力事情の調査のためにワシントンで暮らしていた。今回、取材に対し「感想文は、立場や肩書とは関係なく、あくまで個人的に感じたもの」と断ったうえでメールで回答を寄せた。「物事には国によってさまざまな立場や考え方があることを経験させていただきました。そのような時、原爆展に立ち寄る機会があり、平和に対する思いを書きつづったものです」

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 白髪の元兵士の心を乱した「米兵捕虜の死」を丸木夫妻が描いたのも米国での体験がきっかけだった。

 原爆の図は一九七〇年、米国で初めて公開された。「程度の悪い美術品よりもっと悪い。反感をもよおさせる」(ニューヨーク・タイムズ)と酷評された。

 夫妻は帰国後、広島で亡くなった米兵捕虜を描き始める。原爆は国籍に関係なく人を殺すということを訴えるのが目的だったが、捕虜は市民が石を投げて殺したという証言を聞く。「捕虜の死因については現在、諸説あるが、夫妻が戦争の加害についても描く転機となったのが、その一枚でした」(岡村幸宣(ゆきのり)・原爆の図丸木美術館学芸員)

 痛みを伴う歩み寄りが積み重ねられてきた原爆展。絵とともに米国の開催地を巡った岡村は、対立を解きほぐす時間の力も感じた。ワシントンに続いて会場となったボストン大学で、地元で摩擦が起きないか若い現場責任者を気遣うと、屈託ない答えが返ってきた。「これだけ世界は小さくなって人は行き来しているのに、(自国の考えに)こだわるのって通らないよね」

 二十年前、留学生としてアメリカン大学の原爆展を訪れた阿久津大輔(38)=東京都国分寺市=も「国っていう要素は今後、もっと薄まっていくんじゃないか」と考えている。感想ノートには「過去を知り、現在未来を豊かにするため、展示は意義がある」と記していた。日本に住む外国人を増やし、雇用を生み出すための会社を今年、起業した。

村部さんが20年前に記した原爆展の感想

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 留学中に日米貿易摩擦が起こり、大国の輪郭がくっきり見えた。一方で、多くの移民を抱える米国の寛容さも感じた。

 「異物」をなかなか受け入れない日本で働く外国人が増えることで「今より社会はなめらかになるんじゃないか」。人が行き来すれば、戦争を生み出す誤解や憎悪は減る。「理想を言えば、移民は抑止力になりうる」

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 ハーウィット元館長は今春、原爆展中止をめぐる一連の資料をスミソニアン協会文書館に寄贈した。広島、長崎両市との往復書簡や、退役軍人が修正の書き込みを入れた、展示用の説明文などが含まれる。

 「いつか両国に、強い抵抗や感情がなくなった時、役立つと思うのです」。原爆が、長い戦争の歴史にもたらした転機について、深い議論ができる日が来ると信じている。 (敬称略、木原育子)

 <原爆正当化論> 原爆投下が日米のさらなる人的犠牲を回避し、日本の早期降伏を実現したとする考え方。「原爆神話」ともいわれる。今年1〜2月に米民間調査団体ビュー・リサーチ・センターが日米各1000人を対象に実施した世論調査では「正当だった」とした米国人は56%、「正当ではなかった」と回答した日本人は79%で、日米で依然隔たりがある。しかし米国でも「正当だった」という回答は65歳以上で70%だったのに対し、18〜29歳は47%と半数を割り込んでおり、若い世代には認識に変化が見られる。

 

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