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【戦後の地層】

<和解と愛国>(2)空襲 近代建築の父の罪

当時のレリーフ(上)が残る教文館ビルで、発見された営業報告書を手に話す教文館の渡部満社長=東京・銀座で(安江実撮影)

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 戦時下、二度の空襲に見舞われた東京・銀座の老舗書店、教文館で今年、当時の生々しい記録が見つかった。

 <爆弾投下サレ火勢猛烈…銀座四丁目一帯火ノ海ト化シタル…>

 当時の社長瀬川寿郎(故人)が書いた一九四五年度の営業報告書。創業百三十年を記念し、社史をつくろうと社長の渡部満(64)が資料を確認していて見つけた。

 「バケツリレーで水をかけ、とにかく大変だったようです」と渡部は説明する。周りが焼け野原となる中、教文館は残った。

 今も現役の九階建てのビルは、一九年に来日したチェコ出身の米国人アントニン・レーモンドが設計した。関東大震災で前の建物が壊れた跡地に、三三年に建てられた。「今の耐震基準を満たしていて、感謝している」

 ほかにも聖路加国際病院などのレーモンド建築が戦火に耐えた。戦後も和の伝統様式を取り入れた歴史的建築物を数多く残した「日本の近代建築の父」には、戦争に関するもう一つの過去があった。

     ◇

 日米の開戦直前、帰国していたレーモンドは、米軍から依頼を受ける。日本で使う焼夷(しょうい)弾の実験で燃やす木造家屋の設計だった。日本建築に精通している人物として、白羽の矢が立った。

 米西部の砂漠に建てられた日本の街は、布団や畳など細部に至るまで実物と同じようにつくられた。より効果的に街を空襲するため実験は繰り返され、レーモンドは資材を送り続けた。

 協力した心境を、自伝でこう明かしている。「日本への私の愛情にもかかわらず、この戦争を最も早く終結させる方法は、日本を可能な限り早く、しかも効果的に敗北させることだという結論に達した」

 焼夷弾は全国を焼き尽くし、東京の死者は十万人を超えた。戦後、日本に戻ったレーモンドは、変わり果てた姿を見て涙を流す。「考えていたよりも、はるかにひどいものであった」

 戦争は、自国の大義のもと相手国を「敵」とみなすことで、被害者への想像力を奪う。顔の見えない位置から爆弾を落とし、民間人を殺害する空襲は、その最たるものだ。

 レーモンドの設計事務所で戦後、約十年間勤めた建築家三沢浩は、事務所の倉庫にあった雑誌で、師と空襲の関わりを知った。米の研究者から得た情報も含め、十年前、自らが設計した東京大空襲・戦災資料センターで発表した。「師を告発する」という重い決断。「建築家に限らず、知らないうちに加害者になることはある」という事実を知らせたかったという。

     ◇

 四一年、海軍報道部カメラマンだった山端(やまはた)庸介(故人)も空襲について手記を書いていた。場所は中国。当時、日本は爆弾を落とす側だった。

◆爆弾投下と空襲被害と

祖父の山端庸介さんの遺影を手にする青山雅英さん。周囲の写真は山端さんが海軍カメラマンとして撮影した写真=東京都内で

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<部隊長の右腕が延び、引き金が引かれた。爆弾が吸い込まれるように落ちていく。後から後から>

 海軍の便せん九枚に書かれた手記は、孫の会社員青山雅英(45)=東京都世田谷区=が祖母のマンションから見つけた。

 一九四一年六月二十二日、甘粛(かんしゅく)省涼州(りょうしゅう)の空爆に、カメラマンだった山端(やまはた)庸介(故人)は撮影で同行していた。泥沼化した戦争を終わらせようと、日本は国民党政府の首都重慶を中心とした奥地爆撃を三八年末から二年以上にわたり続けていた。重慶の死者数は一万人前後とされる。

 中国で空の上からシャッターを切ることだけに必死だった山端は四五年一月、爆弾が降ってくる地面にいた。父親と営んでいた東京・築地の写真業の事務所を空襲で焼かれ、従業員十二人を亡くした。「ついにジョホールバルになっちゃった」。シンガポールで日本軍が侵攻の足がかりとした都市の名を出し、妻に嘆いた。

 その夏、今度は陸軍報道部員として徴用された山端は、原爆投下直後の長崎を撮影。空からの無差別殺人が増幅するさまを目の当たりにしたカメラマンは六六年、がんで亡くなった。四十八歳だった。

 十年かけて評伝を書き上げた青山は、「写真が事実」と、多くは語らなかった祖父のスクラップから、戦時のにおいを学んだ。四一年、日米開戦直前の連合艦隊の軍事演習の記事には「平和なるべきこの海に濃い暗影」「太平洋断じて護る」などの文字が躍る。「安保法制で抑止力とか言っているけど、昔も同じようことを言っていたのを皆知っているのだろうか」

     ◇

 越境する憎悪の連鎖を、越境者が食い止めようとする試みがスペインのバルセロナで生まれている。

 重慶空爆開始と同じ三八年、イタリアは内戦中のスペインで、バルセロナを空爆した。ファシズム陣営のフランコ軍の支援のためだ。バルセロナに住むイタリア人たち百人ほどでつくる「アルトラメモーリア」(イタリア語で「もう一つの記憶」)は被害者の体験談聞き取りなど、自国の加害について歴史の発掘と情報発信を続けている。

 きっかけは二〇〇七年カタルーニャ歴史博物館で開かれた空襲展。中心メンバーで数学研究者のグイード・ラメッリーニらは「イタリアは責任を取っておらず心が痛んだ。どの国の歴史も罪を隠している。エリート層の特権維持のためだ」と話す。過去と向き合い、自国の責任や他国の論理を認めないと、真の民主主義は成り立たないと人々に知ってもらいたいという。

 一橋大大学院二年の上野貴彦(25)=東京都国立市=は昨年バルセロナで、アルトラメモーリア主催の講演会に参加し、国の枠組みに縛られない歴史のとらえ方に興味を持った。

 「国と国との間で起きたことは複雑な問い直しが必要なのに、今の政治や社会状況は反対に単純化に向かっている」。アルトラメモーリアの活動を一つの光と感じ、国内の勉強会などで紹介を始めている。(敬称略、福田真悟、早川由紀美)

 

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