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【戦後の地層】

<和解と愛国>(3)捕虜 離れて立つ追悼碑

開園20周年記念式典で捕虜の碑に献花する遺族。右奥は収容所職員の碑=9月、新潟県上越市の平和記念公園で(平野皓士朗撮影)

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 新潟県上越市の平和記念公園には、三つの碑が立っている。戦時中、直江津捕虜収容所があったことを示す碑と、収容所で亡くなったオーストラリアなどの捕虜六十二人の追悼碑。「平和の空に八つの星」と刻まれた碑は、捕虜を虐待したとして戦犯となり、処刑された八人の所員を悼む。三つの碑の間に数メートルずつの距離があることが、地域の葛藤を物語る。

 「八人のうち六人は地元の人。地元では負の歴史」。捕虜や所員の追悼行事を続ける上越日豪協会会長の近藤芳一(60)は話す。

 戦時中、日本には約三万六千人の捕虜が連れてこられ、工場や炭鉱などで働かされた。終戦時に約七百人の捕虜がいた直江津収容所は食料難のうえ、冬は極寒。裁判では、栄養失調や病気で衰弱した捕虜たちに、食べ物を盗んだなどの理由で暴行を加えたり、雪中に立たせたりして、死への距離を縮めたとされた。

 歴史の封印が解かれたのは、戦後数十年がたち、元捕虜が追悼に訪れたりするようになってから。オーストラリアでは日本人捕虜らを手厚く葬っていることを知った市民が、跡地に平和友好記念像をつくろうと募金活動を始めた。所員遺族の感情にも配慮し、像と日豪の碑が立つ公園が一九九五年に完成した。

 「運動を始めた人たちは戦中派。戦犯も戦争の犠牲者という思いが強い」。完成式典に訪れた元捕虜らの通訳を務め、活動に加わった近藤は、それでいいのか疑念を持つようになった。二〇〇一年、元捕虜から寄せられた手記を翻訳したことがきっかけだ。当時の会の判断で、手記が公になることはなかった。

 直江津収容所を舞台とした女優アンジェリーナ・ジョリー監督の米映画「アンブロークン」(米国などで一四年末公開、日本は来年二月公開予定)は、ネット上で「反日的」と批判され、公開中止などを求める署名活動も起きた。

 戦後七十年、収容所を見つめるまなざしは揺れ続け、ときに閉ざされる。九月下旬、元捕虜の遺族らも招いた公園の二十周年式典で、近藤はあいさつした。「日本側の視点だけでこの悲劇を語ってはいけない。正しい認識がなければ友人になれない」

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 日豪協会の初代会長で、中国などで従軍した石塚正一(93)は「捕虜の管理は軍隊の内務規定に準じていた。当時はたたいたりは当たり前だった」と振り返る。

 日本の加害の正当化は、日本の被害を正当化されることにもつながる。「アンブロークン」の原作となった同名小説(未翻訳)は終戦後、元捕虜が広島を電車で通過した時の思いをノンフィクションから引用している。<何もなかった。美しかった。これが戦争を終わらせたんだ。もう飢えることも、治療を受けられないこともない>

 九月、もう一つの被爆地長崎で、被爆者らが中心となって作った、捕虜追悼碑の除幕式があった。

◆原爆観の相違超え

除幕式であいさつする元オランダ軍捕虜のヘンク・クラインさん。式典後、捕虜の仲間を思い涙ぐんだ=9月13日、長崎市香焼町で

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 長崎市香焼(こうやぎ)町の捕虜収容所ではオランダ兵など七十三人が亡くなった。栄養失調や、働かされていた造船所での墜落事故などが死因とされる。

 除幕式に参加した元オランダ兵捕虜、ヘンク・クライン(90)はあいさつの中で、一九四五年八月九日の原爆投下について触れた。香焼は爆心地から約十キロの場所にある。

 ヘンクたちは船の下のドックにいた。床が揺れ、外に出ると、燃えている長崎の街の上で、黒い煙がキノコの形へと変化するのが見えた。「その後の日々はエキサイティング(わくわくする)でした。終戦が近づいていたのです」

 追悼碑の建設は、地元のタクシー運転手の奮闘から始まった。長崎に訪れた捕虜の家族らを跡地に案内しても、何もないことに心を痛めた。私費で建てようとしたりしたがかなわず、元市議で被爆者の井原東洋一(とよいち)(79)らが志を受け継いだ。

 原爆投下を正反対に受け止めた人々が、碑のもとに集まった一日。長崎出身で、この日は福岡から駆けつけた被爆者山口芙美男(77)は、原爆で父母と弟を亡くした。言うに言えない思いはのみ込んだ。「捕虜や遺族のつらい思いは来てみなければ分からなかった。韓国や中国とも難しいことになっているけど、できることからやっていかないと」

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 被爆者に思いを寄せる発言が聞かれたのは、上越市の平和記念公園の二十周年式典だった。元オーストラリア兵捕虜の息子、ロッド・ヤイツ(66)はあいさつの中で、原爆と空襲の犠牲者について「深い悲しみとともに記憶されている」と思いを寄せた。

 二十年以上前に亡くなった教育者の父は、家族と打ち解けることはなかった。「彼は心の一部が戦争で破壊されていたんだ」。高校の教員になったロッドは授業で題材とするため、父に捕虜だった時の経験を聞いた。話したがらず、代わりに一冊の本を渡された。収容所について書かれたノンフィクションだった。本に登場する父は、看守の靴をなめるよう強要され、拒んで顔を殴打されていた。

 九五年、公園の開園式に招かれ来日したロッドは、五〇年代に父が作っていた野菜畑が、日本の畑をまねていたことに気付き驚いた。小さな耕地を余すところなく使って育てられたニンジンやキャベツ、豆、ジャガイモ。「食べ物を育てることに取りつかれていた」。収容所では栄養失調などで多くの仲間を亡くした父。日本風の畑作りにどういう意味があったのか、心の闇は想像するしかない。

 生涯癒えることのない傷を残す戦争を繰り返さない。ロッドが被爆者らに言及したのは、その決意の表れだ。「米国が長崎にまで原爆を落としたのは、ソ連が参戦しようとしていたからだ」。シリアでは今、米国とロシアがそれぞれの大義で軍事介入をし、惨事は繰り返されている。「大事な人を失った心の痛みを共有することで、狂気の再現を止めたいんだ」 (敬称略、早川由紀美)

 <連合軍捕虜> 太平洋戦争の緒戦、優勢が続いた旧日本軍は、東南アジアや西太平洋の占領地で連合軍の約35万人を捕虜とした。民間の研究団体「POW研究会」によると、日本国内の収容所に収容された捕虜は約3万6000人で、軍需工場や鉱山などで使役され、約3500人が死亡した。

 

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